「法に依って人に依らざれ」という釈尊の格言から読み取る介護業界のカリスマの可否

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誤解の無いように最初に申し上げておきますが当ブログは
「仏教ブログ」
「宗教勧誘ブログ」

ではありません。
「宗教」と言うと嫌悪感を示したり、生理的に受け付けない、という人もいらっしゃるかと思います。
しかし格言として、人の道しるべとして、共感したり勉強になる部分もありますので、介護業界に絡めてご紹介したいと思います。
どちらにしても、この記事は「宗教」を肯定するものでも否定するものでもないことを申し添えておきます。

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◆「法に依って人に依らざれ」とは

「法に依って人に依らざれ」とは釈尊が説いた「依法不依人」という涅槃経の文になります。
ここで言う「法」とは「法律」のことではなく「仏法」という意味になり我々に当てはめて考えると「正しい道」とか「正しい方法論」という解釈が出来るかと思います。
つまり
「カリスマだとか教祖だとかを信用するのではなく、その技術や方法論や考え方やアイデア等を信用しなさいよ」
「拠り所とするのは人そのものではなく、その人がやっている素晴らしい方法を拠り所としなさいよ」

という意味になります。
もっと具体的に言うと
「宗教は教祖を崇拝するのではなく、教義を崇拝しなさい」
「法律を作った人を信用するのではなく、法律の内容を信用しなさい」
「カリスマ文化人に依るのではなく、その思考回路や方法論に依りなさい」

ということになります。
大変、理に適った格言だと思います。

◆何故、理に適っているのか

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人に依らない方が良い理由は
「その人も変化していくから」
になります。
良い変化もあれば悪い変化もあるでしょう。
その人と心中するくらいのつもりで崇拝しているのなら尚更危険です。
一種の洗脳とか自己催眠の類になります。
良い変化なら良いですが、悪い変化があった場合
「こんな人だとは思わなかった」
「信じてたのに」
「何だか変わってしまった」

などと言って失望してしまうことも往々にしてあり得ます。
それは
「人に依って法に依らざれ」
という逆のことを自分がしていたことになります。
ですから、常々「法に依りて人に依らざれ」ということを念頭に置いておけば、正しい情報の判断が出来ると言えます。
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◆介護業界のカリスマは?

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ですから、私は「カリスマ」とか「教祖」というものをあまり信用していません。
幸いなことに介護業界においてはあまり
「カリスマ介護士」
「カリスマケアマネ」
「カリスマ看護師」
「カリスマ相談員」

などという存在を聞きません。
ひょっとしたら私の勉強不足でどこかに存在しているのかもしれませんが、どちらかと言えば存在しない方が健全だと言えます。
何故なら、本当に必要なのは優秀なカリスマではなく
「優秀な方法論とか制度」
になるからです。
技術や知識を蓄えることは大切ですが、カリスマという存在を創造したり持ち上げたりする必要は一切ないと思っています。
ブームに踊らされて足が地についていないような専門職が出てこないように願っています。

◆「人」とは自分も含まれる

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「人」とは「他人」とか「他者」のことのように書いてきましたが、実は「自分」も含まれています。
自分の信念を持つことや軸を持つことは大切なのですが、「自分にも依ってはいけない」ということになると矛盾してきます。
しかしその理由がよくわかる例として
「10年前の考え方と今の自分の考え方は変わってきた」
「自分の信念を貫いたら周りに迷惑を掛けてしまった」

ということはあり得ることだと思います。
つまり
「自分の世界だけで生きることも危険」
だということがわかります。
自分を過信したり慢心を抱いたりすることは「盲目的な自分信者」になりかねません。
「自分が自分を信じられなくてどうする」
という風潮もありますが
「自分を信じるのにもバランスが必要」
だということを考えれば納得がいきます。
正しいベクトルや方法論とのバランスが取れていない人は自分に重心を置き過ぎて、結局は自分で自分の首を絞めていたり空回りばかりを繰り返しているのです。
「努力はいつか報われる」
と言いますが、正しくは
「正しい努力はいつか報われる」
ということになります。
「自分」とか「誰々」ということばかりに捉われず、その「内容」や「方法」を見つめ判断していくことが大切だと言えます。

コメント

  1. デイちゃん より:

    とても興味深いお話、ありがとうございました。
    色々考えさせられました。
    ちなみに、私は神様も仏様も信じてないです。
    宗教とはもともと、己の無力さを感じた人間達が、作り上げた神々を奉ることで、死への恐怖から必死に逃れようとしたシロモノにすぎない。
    で、お寺さんが、なんかのたびに金をせびってくるんだけどさ~、もう全部お断り。
    親の四十九日の時に、お寺さんに一応お布施渡したら、「これじゃ少ない」と言うから、「じゃあもう来なくていいです」って、その日で寺を切っちゃった。
    「え?葬式とか困るじゃん?」とか言う人いるけど、今お寺さんなんてネットで安く呼べるし。そもそも寺なしの葬儀もあるから。
    「え?お墓は?納骨しないとダメでしょ?」とか言う人いるけど、ネットで永代供養量15万で納骨させてくれるとこもあるから。高い金払って寺にたのんだり、墓作ったりする必要、全くないわけ。
    ・・・って、ちょっと話がそれました。
    カリスマ・・・確かに日本人って権威に弱いかも。
    「偉い人・すごい人」って存在を作りあげて、「あの人が言ってるから正しいんだ」とか、ある意味責任をその人に丸投げして、その人が言うことは無批判に受け入れる。
    いやいや、自分で考えなさいよ。自分で責任持ちなさいよ。自分のことは自分で守らないと。誰も守ってくれませんよ。
    かといって、自分という存在もかなり不確かな存在。
    「この世に絶対はない」と思いつつも、だからこそ少しでも自分で考えないと・・・って思いたいですね。しんどいけど。
    努力が報われるかわからないけど、より正しいと思える努力をしていって、最終的に成功出来たらいいですね。

  2. 山嵐 より:

    >デイちゃんさん
    こんにちは~
    コメントありがとうございます^^
    「イワシの頭も信心から」とはよく言ったものですね。
    宗教とお金は付き物ですが、お金が絡んでくる時点で本来の在り方とか目的を喪失してしまっている気がしますね。
    本来の在り方を喪失してしまっているという点では介護(福祉)業界も似たようなものと言えるのかもしれませんね。
    最終的に成功できたらいいですね^^

  3. デイちゃん より:

    おっしゃるとおりです。
    昔なら葬式や寺にお金をかけてたけど、最近は「葬式や寺ってムダじゃない?」「金は生きてるうちに使わないと意味がなくない?」って感じになってきたと思います。
    これは、介護保険制度がはじまって、「高齢になっても介護サービス使ってそれなりに生活していこう」「それなら金がいるよな」という意識が強くなったからだと思いますが。
    で、お香典は全額、最期にいた介護施設や病院に寄付、っていう人も増えてるらしいです。
    お金ってさ、葬儀社だの寺だのに意味も分からず払うよりは、最期にお世話になった介護施設や病院に払った方が納得感があるし、介護施設に払って職員さんの処遇向上に役立ててほしいし、病院に払って新しい治療法の研究に使ってほしいよね。
    ちなみに私は、葬式はネットでさがしためちゃ安いとこ(大手の葬儀社の空いてる葬祭場を又借りして行うため安い)、寺に払う金は最小限(今後はもっと削減予定)、お香典は基本なしって言ったけど親戚がもってきちゃったので全額最後に入ってた大学病院に寄付しました。
    ま、葬儀社は結構死んだ時の手続きを代行してくれたり、死んだ後のこととかいろいろ教えてくれたりとか、結構役に立ったからさ、ちょっと払ってもいいけど。寺は不必要でしょ、全く。
    成功って、何をもって成功なのかわかりませんよね。偉くなったら成功?お金が手に入ったら成功?
    でもどんな偉い人もどんな金持ちも、最期は年老いて死ぬんですよね~。
    私は、若いころは他人と自分を比較してばかりだったんですが、年をとってからは全くしなくなりました。
    他人とかどうでもいい。自分が満足して生きればいい。
    成功するというよりは、心穏やかに生きていきたいですね。

  4. 山嵐 より:

    >デイちゃんさん
    返信ありがとうございます^^
    そうなんですね。
    介護施設や病院に寄付される人も増えてきているのですね。
    職員の処遇向上に役立てられているかは謎ですが、寄付した側の納得感があるのであればありですね。
    成功の定義は人それぞれでしょうが
    ・健康
    ・精神的安定
    ・お金
    の三拍子が揃っていれば幸せですね。